「必然的な言い間違い」に関するソシュール的見解なんだかどうだか
こんばんは。新川教室の吉田です。
われわれ塾講師は、立場上、生徒たちから「先生」と呼ばれています。
そして、ごく稀にですが、「お母さん」と呼ばれることがあります。
(これは塾講師あるあるだと思っているのですが、実際どうなんでしょう?)
僕の場合、2年に1度くらい、そう呼ばれることがあります。
初めて「お母さん」と呼ばれた時、まだ父親にすらなっていないのに、
それを飛び越して母親になってしまったことに戸惑いを隠せませんでしたが、
その生徒も恥ずかしそうにしていましたので、まあ単なる言い間違いかなと、
あまり深く考えませんでした。
しかし、そのような経験が2度3度と重なるうち、これは偶然ではないと確信し、
ある種の “必然的な言い間違い” なのではないかと思い至りました。
母親とは、いかなる存在か。
最も親密で、最も信頼できる存在です。
われわれ塾講師は、何十回何百回と授業を繰り返しながら、
受け持った生徒たちとの距離を縮めていき、こと勉強や受験については、
彼らにとって最も頼れる存在(のはず)です。
とすれば、ある生徒がふとわれわれを「お母さん」と呼んでしまう時、
それはある意味、われわれ講師に対する、最高の賛辞なのかもしれません。
何しろその呼び方には、われわれに対するその子の親近感と信頼感が、
MAXに表出しているということだからです。
「なんか近くにいて、あたたかくて、やさしくて、信頼できる」
ああ⇓
「一緒にいて安心できる=心地よい」
ああ⇓
「お母さん」
心身の状態が、発声する記号を、意図せず決定する。
必然的な言い間違いは、そのようにして起こる──というのが、僕の見解です。
つい先日のこと。
仕事を終え、帰宅する途中で食事(カレー&サラダ)をたっぷりとってから、
満腹の状態でコンビニに寄り、単4乾電池を買った時のことです。
僕は平生から、コンビニに限らず、スーパーでも、デパートでも、
お会計をしてくれた店員さんに「どうも」と一声かけるようにしています。
そうすることが世界平和につながると、わりと本気で信じているからです。
ですから、もちろんその日もお会計を終え、
シールを貼られた単4乾電池を受けとった瞬間、言い放ったわけです。
「ごちそうさま!」と。
心身の状態が、発声する記号を、意図せず決定する。
このようにして必然的な言い間違いは起こるのです。