「推し」という存在の重要性
こんにちは!今野です。
だいぶ久しぶりな気がする上、書き方なんて忘れましたが、とりあえず思いついたことを取りとめもなく書いてみます。
いわゆる徒然なるままにってやつです。
皆さんには「推し」はいますか?
実を言うと私自身にはあまりこれ!といった推しはいません。
この芸能人が好きだ、歌手が好きだ、といっても推しではない。
そんな感じです。
そこへ先日、私以上にそういった文化に疎い母からこう言われたのです。
「私、この歌手さんのことが大好きなの。ほんと、天才だよ。
もうこの曲なんて聞いてて感動しちゃって、何度も泣いちゃった。
ねえ聞いて!これなんだけど、ここの笑った顔とかほんとに可愛くて、
ほらここ!八重歯!ここのちょっと見える八重歯がほんと可愛くて!………」
(この後10分くらい付き合わされることになりました。)
……おっとぉ?
この早口、合いの手を入れさせるつもりもないマシンガントーク、
こちらの反応もろくに聞いていないのに話すことに満足している感じ…
この状況見たことあるし、なんなら友人からやられたことあるし。
これはまさか、
「「推し」ってやつ?」
そうするとしばらく黙ったあと「そっかぁ、これが「推し」かぁ」と幾分か嬉しそうに言っていました。
それからというもの、ことあるごとにその歌手の話をされます。
よほど気に入ったのか、ぎこちなく普段使わないYouTubeを開き、
何度も何度も繰り返し聞いています。
その姿はちょっとうきうきしているようにも見え、
そのうちライブにでも行って、ペンライトでも振ってしまうのではないかと思わせるほどです。
以前の母より生き生きしている様子をみると「推し」の存在の影響力を考えずにはいられません。
私も作った方がいいかな、「推し」。
おしまい。