わくわく感。
こんにちは。
武蔵野進学セミナー武蔵小金井教室の川原です。
受験指導をする教師として当然のことですが、日ごろからたくさんの受験問題を解きます。
英語と国語という教科では、膨大な文章を読む作業を続けます。
(ことしこそ、もう膨大で、膨大の上に膨大が積みあがっていて、もうなんだか実感さえ湧かなくなっていますが。)
英語では長文問題、国語では小説、論説、古文、漢文、現古漢融合問題 etc. 。
文章を読み、問題を分析し、解法を駆使して、授業で伝授するイメージトレーニング。
問題を解いたり、生徒に授業で解説するために文章を読み解くときに、
文章に対する個人の好き嫌い、好きだから解き易い、とか、嫌いだから解き難かった、
と、反映させることは決してありません。
解法は、文章の質・文章への好みを、考慮のはるか遠い外に置きます。
しかし、このことを、さかさまに言ってみることもできます。
出会った文章をまず味わっているときには、
文章を読む作業を経た後の問題の分析や解法を適用することへの気遣いを、まったく度外視します。
教師も人間ですから。
英語でいえば、
受験英語、文法英語でがちがちにかためられた不器用な英語と、
受験英語の枠からはみでていそうでぎりぎりその枠内におさめている、
ほんとうはそんな枠なんかどうでもよいよ、
といった、
英語を母語とする書き手の自然な発露の英語で書かれた文章とでは、
どちらが好きになれるか。
いわずもがな。
そんな英語で書かれた受験問題を提供してくれる学校の英語の問題の長文を読むのが、ひそかに楽しみであったり。
国語でいえば。
文章の質の高さというよりもたんに、はやりの作家の文章だからとか、時代の流れに合致している内容の文章だからだとか。
あるいは、特定の研究分野で脚光を浴びたひとに依頼して書かれた、自身の専門分野を飛び越えて書かれた検証不可能な社会批評とか。
そういった文章を選考する受験問題が一方にあり。
それに対して、
たくさんの本読みと熟考を経て、あるいはさまざまな人生経験を潜り抜けてから、
ぐるっと廻ってスタート地点に戻ってきたときに
ようやくぎゅっと搾り出されて生み出された言葉が連ねられていることがすぐわかるような味わい深い文章
をセレクトして提供してくれる受験問題があって。
そういう嗜好でセレクトされた文章を熟読できる時には、やっぱり充実します。
思えば、じぶんがむかし受験をたのしんだ時代も、
受験問題を無邪気に楽しめたのは、
「つぎはどんな文章を読ませてくれるのだろう。」
という、わくわく感があったからでした。
そういうわくわく感があった先に、しぜんと結果がついてきたものでした。
(もっとも、じぶんが全国模試の国語で一位を取ったときに、どんな文章を読んだのか、なんてことは、まったくもって覚えていませんが。)
型にはめるのが確かなことで、教師が提供することも、それなのですが。
それよりもなによりもまず、
文章をしぜんに味わって欲しいし、
そんなふうにしぜんに味わえる文章とめぐるあえる場所に、じぶんの生徒たちを立たせたい。
そんなことを思う日々です。