三種の神器あらため散種の人技
こんにちは。
先月、ブログをサボった新川教室の𠮷田です。
今月は書かねば……と思いつつ、こうして筆をとってみたものの、
なかなかどうして、筆は進んでくれません。
何かについて思考を巡らせようとしても、
断片的なイメージが頭の中をぐるぐる回るだけで、
脈絡ある一つのストーリーを形成してくれそうにないのです。
11月から、本日終了した冬期講習までの間、
刺激的なことがなかったわけではありません。
すずめの戸締り
友人の初子との面会
W杯
M-1グランプリ
コロナ感染
チェンソーマン
冬期講習中の生徒との会話
生徒との会話は、「句点」はもはや必要ないのではないか?というのがその論点。
思い出したのは、“モーニング娘。”の衝撃。
文と文の区切りを明確にするという本来の機能を破棄し、
句点という記号を単なるデザインとして使用したその感覚は、
やはり卓越したものだったと言わざるを得ません。
句点不要論=文章不要論。
句点なしに展開されるメッセージのやりとり、
配信される無数のショートムービー、
はたして「エクリチュール」か「パロール」か。
“バズる” という現象こそ、まさにデリダの言う“散種”の萌芽に思え、
その引用可能性、反復可能性をも加味すれば、
やはりエクリチュールによる統合的な解釈の破壊、
すなわちロゴスへの収斂の否定=脱構築に思われ、
こういう話を50年前にしていたデリダってすげえなあと、
改めて感嘆するに至るのです。
……さて、何の話でしたっけ?
今年のM-1は、令和ロマンが来るって話?
うん。
きっと来る。