どこから見るかはその人しだい
こんにちは。新川教室の吉田です。
今夏、楽しみにしていたアニメ映画『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』、
8/18 に封切られましたので、さっそく鑑賞してまいりました。
もとネタは、二十五年ほど前のテレビドラマで、監督は岩井俊二。
岩井俊二監督といえば、僕の中では『リリイ・シュシュのすべて』が思い出されます。
その内容も、映像も、音楽も鮮烈で、
ドビュッシーが好きになるきっかけにもなった、思い入れのある作品です。
岩井俊二監督の描いた『打ち上げ花火~』のテーマは、ずばり「少年の淡い恋心」。
クラスの美少女にほのかな恋心を抱く小学生の主人公の淡い期待を、
「花火は横から見ると丸いのか、平べったいのか?」
という問いに重ねて、見事に描き出していました。
僕の解釈では、けっきょく少年の恋は成就しないのですが、
だからこそそれが、夜空に一瞬輝き、そして儚く消滅する打ち上げ花火のイメージと重なり、
打算のない幼き日の恋心を、鮮やかに表現していたと言えるのです。
一方で、アニメ版としてリメイクされた『打ち上げ花火~』は、テーマからして別物でした。
好きな子のために世界線を変更できる──
つまり、世界が自分(たち)にとって都合の悪いものならば、
この世界そのものを変えてしまえばいい。
主人公の意志(願望)によって、世界が幾度となくリテイクされる……といった、
いわゆる “セカイ系” と括られるようなストーリーとして描き直されていました。
HoneyWorks(通称ハニワ)の曲に『世界は恋に落ちている』というヒットソングがありますが、
ここでいう「世界」とは、=「僕」or「私」です。
かつて「この世界に僕(or 私)がいる」という形で語られた被投的実存は、
いまや「僕(or 私)がいるこの世界」という起源的実存として語られる対象となったのです。
というわけで、この作品は、おそらく評価が真っ二つに割れると思われます。
被投的実存(20世紀的実存)を生きる人は、
「なんでこいつらのために、この世界が何度も書き換えられなきゃいけないんだ?」
と怒りにも近い疑問を感じるでしょうし、
起源的実存(21世紀的実存)を生きる人は、
「そうだ、ハッピーエンドになるまで何度だって世界を書き換えるんだ!」
とその熱い想いに感動することでしょう。
どちらが良いとか、悪いとかの問題ではありません。
生きている実存が違う、ただそれだけのことです。
僕は20世紀に生まれ、21世紀に生まれた子供たちを相手に仕事をしています。
ですから、どちらの世界観も理解することはできます。
でもやっぱり好きなのは、
うだるような夏の日に観たいのは、
世界をリセットできる力を持つ少年の話よりも、
好きな女の子に「好き」という気持ちを伝えることさえできない、
無力な少年の話であるような気がします。