「いいね」で世界平和を
こんにちは。
新川教室の𠮷田です。
ロシアとウクライナ。
戦争が起きています。
ニュースを見ていると、セカオワの『Dragon Night』の一節が脳内再生されます。
人にはそれぞれの「正義」があって
争い合うのは仕方ないのかもしれない
この曲がヒットしたとき、ああ正義は相対化されたんだなあ、としみじみ実感したのを覚えています。
正義とはそもそも、誰にとってもそうするべきだと思える、客観的で普遍的な、
つまり「絶対的な正しさ」のことでした。
プラトンもその著書『国家』において、善のイデアなるものを探究していますし、
カントも定言命法という形式を用いて、その絶対性を強調しました。
ところが、ニーチェが喝破したように、善悪とは社会的弱者の捏造した価値基準でしかなく、
現代において「大きな物語(哲学や宗教)」が凋落した結果、
絶対的なものとして定義されていた「正義(善)」の概念は、
「〜にとっての」という形でしか語ることのできない、相対的な概念へと変容したのです。
最近、Vaundyの『世界の秘密』を聴いて、それを再び痛感しました。
2番の冒頭の部分です。
今日どっかで悪者が死んだらしい
でもたくさんの命が救われたらしい
この一節を見て、何か違和感を覚えませんか?
というのも、この歌詞、本来ならこう歌われるべきではないかと思うのです。
今日どっかで悪者が死んだらしい
だからたくさんの命が救われたらしい
悪者が死んだから、たくさんの命が救われた──
これなら極めてロジカルな命題と言えるでしょう。
ところがVaundyの感性はこう歌うわけです。
今日どっかで悪者が死んだらしい
でもたくさんの命が救われたらしい
うーん、すごくないですか? この逆接。
だってもし悪者が死んだことを「良いこと」とするならば、
たくさんの命が救われたことは「良くないこと」になってしまうんですよ!?
まあそんなわけないので、たくさんの命が救われたことを「良いこと」とすると、
必然、悪者が死んだのは「良くないこと」になる。
つまり、悪者が死んだことは、それ自体まず忌むべきこと、悲しむべきことであるという倫理観がその根底にあることになります。
今日どっかで悪者が死んだらしい(やだね、悲しいね)
でも、たくさんの命が救われたらしい(から、まあよかったね)
というわけです。
続く歌詞はこうです。
正義と倫理と命を天秤にかけて量った声明で
難しいことはもうわからない
けれど実は僕らが悪者だったかもしれない
なんて考えると
彼の気持ちが分かるかもしれない
ここから見てとれるのは、「悪者」というレッテルは、
その場その場のタイミングとかシチュエーションによってたまたま誰かに貼られるものだ、という感覚です。
これを「悪の相対化」と呼ばずして何と呼べばいいのでしょう。
今回の戦争。
一体誰が「悪者」で、「彼」とは誰を指すのでしょうか?
確かなのは、「悪者のいない世界=平和な世界」ではないということです。
あらゆる価値が相対化され、解体されていく現代(ポストポストモダン)において、
善悪の彼岸が、かつてニーチェが警告していたニヒリズムとは違った文脈・形から到来しようとしているのです。
そうなれば、もはや「よい、悪い」は「好きか嫌いか」でしか語れなくなります。
じっさい、「かわいいは正義」というフレーズには妙な説得力がありますよね。
本当に「かわいさ」が善悪の基準になったら面白いかもしれません。
今回の戦争でいえば、両国の大統領がコスプレして Tik Tock に同音源の動画をあげて、
「いいね」のたくさんついた方が勝ち!とかね。
あーこれ悪くないかもしれない、本気で。
だって少なくとも人は死なないし、建物も壊れないし、家族が離れ離れになったりしないし。
ぜひご一考ください、国連のみなさん。
国際紛争を解決する手段として、「いいね」を採用するのはいかがでしょう?