日本最古の道を往く。
ブログを書く時間
をまったく見つけられないままに、
あっというまに数ヶ月。
こんにちは。
武蔵野進学セミナー武蔵小金井教室の川原です。
8月月末の
奈良彷徨のつづきを書きたいと思いますが、
ちなみに。
(↑ここをクリックすると、沼尻先生の記事に飛びます。)
紹介された日の2,3日後には購入して、
奈良に向かう道すがら、
携行しました。
おもしろくて、
あっという間に読んでしまいました。
『孤鷹の天』
時代としては、恵美押勝の乱と道鏡が全盛を誇った時代。
大学寮の学生たちが主人公。
(↑ここをクリックするとその内容紹介の記事に飛びます。)
和銅年間の前後をうまく肉付けして語れるようになったのと同じく、
今回のわたし自身の奈良の旅と併せて、
この本を読んだことで
奈良のことをぐっと「身の近く」に引き寄せて
生徒に語れるようになりました。
学問および語学の修得が、古代においても、
音読による暗唱
から始まり、
そして
そこから書物との「対話」が生まれる。
大学寮の学生たちの勉学の様子の描写を通じて、
「まなぶ」ことの本質が伝えられていて、非常に興味深かったです。
さて。
奈良探索の二日目は、
↑ここをクリックすると一日目の記事に飛びます。)
日本最古の道とされる「山の辺の道」を歩きました。
その名の通り、山沿いの道。
石上神宮から海石榴市まで続きます。
途上には、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳があり、
『古事記』に於いては、
「(崇神天皇の)御陵は山辺の道の勾の岡の上に在り」と書かれ、
初期大和政権がこの道沿いに誕生したとされています。
万葉集ゆかりの道でもあり、
ルートに沿って、多くの歌碑が建てられています。
奈良二日目の朝。
JR奈良駅を出発。
天理駅。
天理駅前広場の名前は、
コフフン。
天理本通商店街を抜け、
ついで川沿いの道を歩き、
山の辺の道の出発点である、
石上神宮に到着。
鳥居。
柿本人麻呂歌碑。
「をとめらが 袖ふる山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひき我は」
(乙女が袖を振るという
あの布留の山の神の社の瑞垣が久しい昔からあるように、
ずっと昔から私はあの娘のことを思い続けて来た。)
石上神宮と
御神鶏。
そして、
ここから本格的に山の辺の道に入っていきます。
山の辺の道
田園風景の中を歩いていて、
むかし、
20世紀を代表する小説『失われた時を求めて』
の作家マルセル・プルーストの故郷、
イリエ・コンブレー(Illiers-Combray)を探索したときのこと
を
思い出しました。
路傍の花。
そして、古墳。
なにより、
畑の中に古墳がある、
という構図に衝撃を受けて、魅入られました。
柿本人麻呂歌碑。
「衾道を 引手の山に 妹を置きて
山路を行けば 生けりともなし」
(引手の山に妻の屍を葬って山路を帰ってくると悲しくて生きた心地もしない。)
崇神天皇陵をぐるりと巡って、いったん山の辺の道を外れます。
目的地は、三角縁神獣鏡が大量出土した黒塚古墳。
付設の展示館では、墓内の様子が再現されています。
古墳頂上。
黒塚古墳をあとにして、
山の辺の道と並行した国道をたどっていくと、
景行天皇陵、
そして、卑弥呼の墓とも言われている箸墓古墳。
箸墓古墳を経て、さらに国道を辿っていくと、
巨大な構築物が目に入ります。
それは、三輪山をご神体とする大神神社の大鳥居。
大神神社に向かい、
二の鳥居のそばで、三輪そうめんを頂きました。
美味しかったあ。
大神神社にお参りをしたあとに、
ふたたび山の辺の道に戻ります。
山の辺の道も、最終盤に入ります。
海石榴市のこの歌碑をもって、
山の辺の道の終点。
田園風景を抜けて、
桜井駅でゴール。
京都を経て、
帰途につきました。